Some Folks Lives

買ったものとか、ゲームとか

ブログとツイッター

ブログとツイッターってどう違うんだろう?と思ってたけど、最近ちょっとツイッターはじめてなんとなくわかった。

ツイッターは、チャットみたいなものなんだねー。

だから過去ログとか見づらいし、というより過去の記録なんてもうすぐに重要性がなくなる。

あるのは、今・今・今・・・・

いまをほかの人と共有するためのツール、みたいな感じ。共時性と即時性のためのツールとでも言うべきか。

だからネットに知り合いとかがいないとすげーつまらんし、何人かめぼしい人見つけてフォローしても、数日放っておくだけで、ログが流れまくってもうわけわからんくなって放置状態になる。

ブログもそういう面はあると思うけど、最近思っているのは、ちょっとオーバーな表現だけど、「人類の知恵の蓄積庫」みたいな面があるんじゃないだろうか。

たとえば、はじめて行く店とか、気になった商品とか、昔のすごくマイナーでふるーい映画を見たりして、それについて何か情報ほしい・ほかの人はどういう感想持っただろう、とか思ったとき、検索すると、ブログとか見つかったりして重宝したりする。

特に自分の場合、PCがトラぶったりしてメーカーのQ&Aにも対処法が無いような場合、ググったりすると、同じような症状に陥った人のブログが見つかったりしてすごく助かったことも多い。

要するに、ブログの価値は、それが書かれた「今」ではなく、むしろ「未来」にこそあるのではないか、ということ。

今日どこで買い物をした、何を食べた、何を見た、どんなことを思った、など・・・・

どんなくだらない動機から書かれた、(その時点では)くだらない情報でも、未来においてそれを必要とする人が現れるかもしれない。

情報の価値は、書き手が決めるのでなく、読み手が決めるものだ。

それゆえに、自己満足で書かれ、誰からも見向きもされず、コメントもされなかったものが、まさにそれが些細でくだらない事に関するものだからこそ、未来においてはとても重要な情報になるかもしれない。

まとめれば、グーグルのような強力な検索装置と組み合わさることで、いまやブログは、巨大な「人類の知恵の蓄積庫」となりつつあるのではないか。。。

であれば、どんなに些細なくだらないことしか書けないとしても、何か日々のことを記録することには、ひとつの意義があるのではないだろうか。

というわけで、自分のブログのくだらなさに対する自己弁護みたいなもの書きました。

そういうわけで、ブログをはじめようと思いました。まる